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江戸時代の旅籠は現代のビジネスホテル!旅館・本陣・木賃宿との違いとは
2020.02.05 ホテル全コラム ホテル豆知識 業界コラム

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現代の日本にはホテル、旅館、簡易宿所などがありますが、江戸時代にも旅籠、本陣、木賃宿など多くの宿泊施設が存在していました。

今も昔も宿泊施設によって設備や宿泊料は異なります。

今回は、ホテル業界のトリビアである江戸時代の宿泊施設と現代との共通点について解説します。

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「旅籠」と現代の旅館はランクが違う!?

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時代劇などで頻繁に登場する宿泊施設が「旅籠(はたご)」です。旅籠に主人公が滞在するシーンを見た人は、「旅籠は現代の旅館に相当する建物なのだな」と思うかもしれません。

しかし現実には、旅籠の位置付けは現代の旅館とはかなり違ったものでした。どのような相違点があったのか解説していきます。

旅籠

旅籠とは本来、馬で旅をするときに馬の餌を入れる籠(かご)を意味する言葉でした。それがいつしか「人の食事を入れる器」を示す言葉になり、さらに「宿で出る食事」という意味に変わりました。江戸時代には「旅籠=食事を出す宿」という意味になり、これが定着しました。

旅籠では一般的に夕食と朝食の二食が提供されていましたが、場所によっては昼食用のお弁当を持たせてくれるところもあったようです。食事は一汁三菜が基本です。

なお、旅籠は規模によって「大旅籠」「中旅籠」「小旅籠」に分類されていますが、サービス内容で分類されることもあります。その場合、宿泊を生業とする旅籠を「平旅籠」と呼ぶのに対して、「飯盛女」と呼ばれる私娼による性サービスが行われるなど、遊びの側面がある旅籠を「飯盛旅籠」と呼びます。

ただし「飯盛女」は給仕をしてくれる女性も含む言葉なので、飯盛女=私娼というわけではありません。

旅籠は今の感覚で言えば、リーズナブルなビジネスホテルに近い扱いだったようです。宿泊料金は現代の価格で3000~5000円程度でした。

現代と大きく違う点として、混雑時に相部屋を頼まれることが挙げられます。

旅館

現代の旅館は、単純に言えば和風を基調とした宿泊施設です。温泉をセールスポイントにしているものは「温泉旅館」、料理を重視しているものは「割烹旅館」、駅前にあってアクセスが良いものは「駅前旅館」などと自称または他称されます。

基本的に一泊二食付きなのは旅籠に似ていますが、メニューは多種多様であり、何皿も供されることがあります。旅籠のように一汁三菜というわけではありません。

また、現代の旅館には食事のない素泊まりのプランや、夕食のみまたは朝食のみのプランを用意している旅館もあり、利用者の希望に応じて選ぶことができます。

旅館の宿泊料は旅館によってまちまちですが、一泊およそ7000~2万円程度の場合が多いようです。

なお、温泉地には「自炊旅館」といって、調理場が併設されていて自分で料理をしながら湯治のために長期滞在できる旅館が存在します。自炊旅館には後で述べる「木賃宿」に近い特徴もありますが、湯治では古くから自炊が当たり前で、湯治のために温泉近くの宿に泊まる昔の人は米や味噌などを持参していたそうです。

現代の旅館は江戸時代には「本陣」と呼ばれていた

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現代の旅館の特徴と似通っているのは「本陣」と呼ばれる宿泊施設です。本陣には参勤交代などのときに身分の高い人が宿泊し、一般人はほとんど泊めてもらえませんでした。

また、本陣は厳密には宿屋として営業しているものではありません。その土地の有力者の家などを「本陣」に指定して泊まるというスタイルが採用されていたのです。参勤交代などのときは、日程に合わせて本陣として使われる家が前もって指定され、家主はそれに従って身分の高い人が泊まれるように準備を行う必要がありました。

なお、本陣に泊まっていたのは大名だけではありません。将軍、幕府の役人、公家、公卿、高層なども本陣を利用していました。

参勤交代では多くの人員が移動するため、本陣に泊まれない人は「脇本陣」という予備的な施設に泊まっていました。この脇本陣には、身分の高い人が泊まっていないときであれば、一般人でも泊まることができました。

本陣および脇本陣は、一般人が使う旅籠と違って「門」「玄関」「書院」などを作ることが許されていました。これらは現代の旅館に見られる設備であり、旅館という文化が特権階級の滞在施設から広がっていたことがわかります。

旅籠には宿泊料が設定されていましたが、本陣には明確な料金が設定されていませんでした。これは既に述べた通り、本陣が厳密には宿屋ではなかったからです。滞在した特権階級からは「謝礼」という形で金銭をもらえたようですが、財政的に苦しい藩のなどからは十分な謝礼が出ないことも多かったとされています。

金銭による謝礼以外に、帯刀を許可されたり名字を名乗ることを許されたりするなど、何らかの特権を付与されることもありました。

本陣には一般人を泊めることがほぼなかったため、経営的には苦しい部分も多く、金銭的な事情から没落していった本陣もあったといいます。

参勤交代制度がなくなるとともに本陣の役割は終わり、その多くは取り壊されましたが、滋賀県の「草津宿本陣」のように文化財として保存されている本陣もあります。

江戸時代のカプセルホテルは「木賃宿」

庶民にとって安価で使いやすい宿泊施設として、江戸時代には「木賃宿」というものがありました。旅籠が立ち並ぶ宿場町の外れなどに構えることが多かったようです。

木賃宿は畳の部屋に相部屋が基本で、本当に「寝るだけ」の宿泊施設でした。寝具もないため、宿泊する人は寝具を持ち込むか、自分の衣類を敷いたり被ったりして寝ていたそうです。

また、旅籠と違って食事は出ません。何かを食べたい人は自分で食材を持ち込んで自炊する、または木賃宿の管理人などに料理してもらう必要がありました。このとき調理に必要な薪の代金を支払う必要があったため、「木の代金=木賃」となり、木賃宿という名称の由来となったそうです。

十返舎一九が記した滑稽本「東海道中膝栗毛」には、主人公の弥次郎兵衛と喜多八が木賃宿に泊まるシーンがあります。物語に出てくる木賃宿は農家を改装したような手狭な宿で、囲炉裏があったことなどが描写されています。

寝るだけという意味では現在のカプセルホテルに近いですが、相部屋で雑魚寝が基本だったため、現代人の感覚では非常に粗末な宿と言えます。しかし料金は非常に安く、一泊数百円程度だったそうです。

江戸時代の庶民は徒歩で何日もかけてお伊勢参りなどをしたため、泊数が非常に多くかかりました。毎日旅籠に泊まれるようなお金がない旅人にとって、木賃宿は野宿を回避できるありがたい存在でした。江戸時代後期には旅行が庶民の間で大流行しましたが、その中において庶民が安く泊まれる木賃宿は、重要なポジションを占めていたのです。

明治時代には宿場制度がなくなり、木賃宿は単に「安くて粗末な宿」を指す言葉になりました。その後の木賃宿は貧民街などに多く建てられ、低所得な労働者を雑魚寝させるような宿も多く、ノミや寄生虫の温床となるような不潔な環境だったそうです。

宿泊施設の歴史には興味深いところが盛りだくさん

現代の旅館に大きな影響を与えたのは「本陣」で、元々は特権階級しか泊まれない場所でした。江戸時代の庶民は、現代で言うビジネスホテルの旅籠や、カプセルホテルに相当する木賃宿に泊まっていたのです。

日本には旅館を含めた宿に関する長い歴史があるので、調べてみると面白い発見があるかもしれません。

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